村上春樹『東京奇譚集』(新潮文庫)所収「偶然の旅人」
気になった文章をいくつか。
あえて隠すつもりはないが、あたりかまわず言いふらすようなことでもない
彼はにっこり微笑んで相手の目を見た。そして自分はただ場を和らげるために、罪のない冗談を言っているのだということを示した。彼女もそれを理解して微笑んだ。
音楽の世界というのは神童の墓場なんだよ。
かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。
「どうしてまた、電話してきたの?」と姉は抑揚を欠いた声で言った。
「わからない」と彼は正直に言った。
「ただ電話した方がいいような気がしたんだ。姉さんのことが気になったから」
ジャズの神様だかゲイの神様だかが、―あるいはほかのどんな神様でもかまわないのだけれど―どこかでささやかに、あたかも何かの偶然のようなふりをして、その女性を護ってくれていることを、僕としては心から望んでいる。とてもシンプルに。